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僕が御前崎に行く理由の続きです。

整体の専門学校を卒業してからすぐに開業してしまった僕は、師匠を持ち本来積むべき修行期間というの時間を飛ばしてしまっている。

こーゆー治療家って今は多いんじゃないかな?

これについては良かった面もあるけど、悪い側面もある。

施術を行うことがずっと現場しかないから、できていること、できていないこと、わかっていること、わかっていないことの判断をすべて自分でしないといけない。

足りないことや、方向性、本当に必要なことを自分で決めないといけない。

だから安い言葉に引っかかってしまう時期もあった。

右往左往してしまう時期もあった。

不安ばかりで楽しめない時期もあった。

 

師を持たないということはいつまでも技術ベースの基本がほぼ「自分」ということになる。

言葉は悪いけど、基本が「崩れてしまっている自分」でも誤魔化せてしまうのも整体という業界。

誤魔化せてしまうというのは、「そこそこ」ではやっていけてしまえるということ。

もっというと自分では誤魔化しているつもりはなかったりする、、、

だから、余計とタチが悪い。

勉強しているつもり、学んでいるつもり、できているつもり。

「つもり」でも、カラダのことを深く知らないクライアントさんは「そうなんだ〜」となってしまう。

 

新しい技術を知ってすぐにそれができるほど、僕は器用じゃない、、、、ということに気がつけたのも最近で、それまでは自分ではそれなりにできている「つもり」だった。

ただ、それを判断しているのはクライアントさんなので、「できてなかった」「わかっていなかった」としても、仕事をやりきる根気やセンス、気持ち、勢いでなんとなってしまっていたりした。

そのことに気づかせてもらえたのが、暁光先生を師事させていただいて、リハビリ隊という名目で先生のカラダを施術させてもらうようになってから。

 

一流のプロである先生に行う施術は毎回、異常なほど緊張した。

リラックスとは程遠い世界。

「それは今何をやっているの?」

「◯◯がこうなっていたのでこうするために◯◯しています。」

2秒でスパンと答えることができなければ、その施術は作業でしかない。

 

答えられなかったからといって、どやされることもなく、ただ淡々と施術を受けてくれる先生。

「。。。。。」

こんなにシビれる時間はないよ!!

沈黙が恐ろしいよ!!

でも、その時間を積み重ねさせて頂けことが自分の底上げになってきている。

作業では、人がビックリするような変化は起こらないし、当然、口コミも起こるはずがない。

僕がサロンを始めた頃、口コミが少なかったのも作業をしてしまっていた自分がいたからなのかもしれない。

今、口コミが増え、楽しく施術させてもらえているのは、リハビリ隊という時間があったからだと思ってる。

 

どうしたら、先生のカラダが今より強くなり、らしさを取り戻し、昔と同じ姿をみることができるのか?

そんなことを考えながら先生のカラダを探っていると、手が止まる場所があったりする。

「そこに何かある」

先生の助言を聞きながらその部分を探っていると、自分ひとりでは思いつかなかったような施術が生まれることがある。

先生のリハビリ隊の時間の中でつくられた数々のアプローチや施術に向かう自分の姿勢がクライアントさんの喜びに繋がっているんだと思っています。

そしてそのアプローチが、、、つづく。

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